End of the World 岡崎京子

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岡崎京子のEnd of the World。pinkの次に読む。

 

・はじめに(2019.01.14.追記)

少なくない人が、岡崎京子のEnd of the Worldを検索してこの記事にアクセスしているようなので、各々の読者に対して軽いまえがきを。

まずこの作品を未読の人に対して。この記事には収録作品全てについてあらすじ的な感想が書かれているけれども、軽いネタバレもあるのでそのつもりで。

ついでこの作品を既読の人に対して。上述のようにこの記事にあるのは(ちょっとした感想が入った)あらすじだけであって、収録作品についての分析や考察は皆無なのでその点は悪しからず(そうそうこんな話だった、という記憶の引き金にはなるかもしれない)。

最後に(少ないと思うが)岡崎京子作品自体を未読の人に対して。いわゆる典型的な岡崎京子作品を味わいたいのならこの作品集は勧めない。リバーズ・エッジヘルタースケルター、PINKといったものから入るのが(世間的な意味での岡崎京子という意味では)適当だと思う(この作品集の中だと、水の中の小さな太陽がそれらに近い)。

とはいえ、大切なのはこんな能書きではなく作品そのものなのだから、何よりもまず眼の前の作品の方へ。

 

・あらすじ的な感想(以下元の記事)

短編集。言い方は悪いけれど習作的な印象が強い。ある程度の長さがないと十分に話が展開されないから、どうしても喰い足りなさを感じてしまう。岡崎京子の作品は比較的そろそろとスタートして、それが徐々にペースアップし、最後にハチャメチャで破滅的な幕切れになる典型的な悲劇、サスペンス的なところがあるから。

 

収録されている個々の作品それぞれについて少しだけ書くと、エンド・オブ・ザ・ワールドは逃亡モノ。溺愛と虐待という歪んだ愛情の檻に閉じ込められていた義兄妹がそれぞれの両親を撃ち殺し、檻の外へと逃げ出す。しかし檻の外は外でまた違った種類の地獄が広がっている。「と とてもこの世はみな地獄」という太宰治の『懶惰の加留多』にある言葉が似つかわしい。

 

VAMPSはVAMP(だらしない女)とVAMPIRE(ドラキュラ)をかけた吸血鬼モノ。とりわけ疎外がモチーフになっている。人間とドラキュラの混血児であるさくらは人間にもドラキュラにも馴染めない。彼女は完全に人間であるわけでもなければ、かといって完全にドラキュラであるわけでもない自分の存在そのものに対して疎外感を抱いている(そしてその感じは生物的なものに由来していて、どうにもならない事実として本人の前に突きつけられている。彼女は決してそれから離れられない。自分が存在しているだけで初めから疎外されているという感覚。その渦中にある人間)。人間の側にもドラキュラの側にも自分の居場所はない。鳥獣合戦のこうもり。そんな彼女の孤独、不安、劣等感が描かれる。

 

ひまわり。最も短いけれどセンセーショナルなお話。小学6年生の純一。小学生最後の夏休みのある日に彼を襲った悲劇をスケッチしている。悲劇は忘れた頃に突然やって来て、重たいものを彼に投げ込み、そして何事もなかったかのように去っていく。嵐とその消えない爪痕。

 

水の中の小さな太陽。この作品にはVAMPSとは別な意味での疎外感、孤独、倦怠が描かれる。あるいは典型的な虚無感。ミーナは才?色兼備な高校3年生。家は裕福で小中高一貫の学校に通っていて、同じく才色兼備は彼氏ユーヤと付き合い一見満たされている。しかし彼女が感じているのは疎外感と倦怠。両親は彼女のことなんてほとんど気にかけず、ユーヤとも微妙に馬が合わなくなってきた、そして親友のサヤカまで失ってしまう。その疎外感と倦怠を振り払おうとして彼女は酔おうとする。あれやこれやに手を染める。その末路は…。冒頭のエピグラフの一節がこの作品の全てを物語っている「存在するということのほかには、何も私には起こりえない。賛成だ。異常な倦怠。」

 

乙女ちゃんはこの短編集の中で少し異色な作品。落ち着いている。つつましやかに暮らす一家(しかし定年後スカートを履きだし近所の人から乙女ちゃんと呼ばれる父がいる)の模様が、しっとりとしたエッセイ風のタッチで描かれる。