万引き家族 是枝裕和

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是枝裕和万引き家族

万引きを家計の足しにしている疑似家族の姿を描いた物語。

家族であるのではなく、家族になることを試みる人々(共同体)の姿を描いたものだと思った。彼らは血のつながりのある真正の家族ではないけれども、祖母、親子、夫婦、兄妹などの役割を(もはやかなり自然なものになっているけれど)を演じ、本物の家族になろうとしている。

彼ら各々は家族になることにそれぞれの思いや思惑を託している。それは家族の温かみ、親子の絆、痛みの共有となぐさめ、秘密の共有、子どもを持つことへの憧れ、生活のための金などなど。彼らは家族という役割を演じながら、身も心も支え合いながら暮らしている。

その意味でこの映画は、家族であるのではないけれど家族になろうとしている人々の姿を描いた作品かと思っていたのだけれど、少し考えてみて、結局のところ家族というものは全て各々の役割を演じること以外の何ものでもないのだろうと思うに至った。というのも、家族を家族たらしめるのは血のつながりというよりも、各々が役割をこなしつつ長い時間共に暮らすこと(によってその都度育まれていく関係)の方だろうから。

家族を他の他人たちと区別するものは何かを考えてみると、すぐに思いつくのは血のつながりだけれど、それだけでは(法律での規定はいざ知らず)実際的には家族と呼ぶには不十分だろう。

家族が他の人たちとは異なり、家族という特別のつながりで結ばれた人たちであるかのように見えるのは(他人からそう見做されるのは)、血縁というよりもむしろ、継続的に共に暮らし、夫婦や親子、兄弟といった役割を演じ続けることによってだろう(母親の役割を果たさない母親が母親失格と後ろ指さされ、また当のその子どもにとっては母親ではないように)。夫婦にしろ我が子にしろ兄弟にしろ、最初は赤の他人であり、その間には他の他人と同様何ものも存在していない。それが共に暮らし、徐々に徐々に各々の役割を演じつつ関わりあっていくことによって、その人間について他人よりも多くの一面を見知り、また自分も自分を開示し、気心が知れてくるのであり、特別な愛着のようなものが湧いてくる。逆に言えば、家族を家族たらしめ他人と区別させるのは共同生活の密度の濃さだけであり、それ以外にはない。

そのようなわけで、家族とは、何か実体的な家族というものが初めからどこかにあるというものではなく、むしろあらゆる家族は共同生活によって構築されていく(され続けていく)関係(が他人よりも濃いこと)のことであると思う(それが実体的なものと思えるのは、長期の継続による慣れが大きいのであって、常にそれは解体される可能性があると思う)。