竜の学校は山の上 九井諒子
九井諒子の竜の学校は山の上。
はじめて読む九井諒子。
表題作を含む9つの短編が収録されている作品で、それらに共通するモチーフは人と人でないものとの交流。それはたとえば、魔王退治から帰還した勇者と幼馴染の村人であったり、奥さんがケンタウロスだったり(人間とケンタウロスが共生している世界の話だったり)、同級生が天使(羽が生えている)だったりするファンタジーな世界。けれども、一見ふざけているようにも見えるそのファンタジーな交流が、翻って人間の心の機微や(異なるものとの共生という)問題などをあぶり出している。
こうした人間と人間以外のものとの交流というモチーフは市川春子の作品を想起させるけれども、市川春子の作風がより静かで幻想的なもの、またよりその交流というものに焦点を当てている(ように思われる、もっと言えば、人間と人間でないものとの境目、種差はどこにあるのかを知ろうとしている)のに対して、九井諒子のそれはもっとRPG的なファンタジー感のあるタッチで、あくまで設定的に用いられているように思われる。
個人的に出色だった短編は、帰郷、魔王(特に見開きで真相を暗示させている部分)、現代神話の3つ。
四月の永い夢 中川龍太郎
主人公初美の喪失とその受容が、こじんまりとした邦画的な品の良さ、美しさでくるまれて描かれる。
あらすじは次のようなもの。3年前に初めての恋人を突然の(自)死によって喪った初美は、その喪失感のため就いていた教職も辞し、そば屋でアルバイトをする日々を送っている。そんなある夏の日、彼女のもとに恋人からの手紙があるとの報知を受ける。教え子との遭遇や旧友との再会、バイト先の常連客からのアプローチなどもあり、未だ喪失の中に沈んでいる(あるいは永い夢の中にいる)彼女の日常は徐々に動き始める……。
率直に言ってしまうと、佳作だけれどえぐみに欠ける、優等生的な邦画だという印象を受けた。
主演朝倉あきの透き通るような正統派の美しさ(仲間由紀恵を想起したし、彼女のさまざまな衣装や表情を映す様子は岩井俊二的なところがある)、脇役たちとの掛け合い、無理なくかつ程よいテンポで置かれる伏線とその連なり、伏線を余すところなく積み重ねて、話的にも心情的にもクライマックスにもっていく筋の運び、こじんまりとした町や手ぬぐい工場、淡く美しい風景の映像、それら全てが程よい具合に、あたかもこの手のヒューマンドラマのお手本であるかのように配置されていて、その意味で佳作だと思う。
けれど、良くも悪くも佳作であって、それ以上のえぐみというか、突き抜けたところ、徹底したところが欠けているように思えた。それは特に、この映画のモチーフである喪失とその受容を描くにあたって顕著で、3年の間、心のうちに抱えていた喪失感、そして(実は死の4ヶ月前に別れていたという)秘密を、恋人の実家で、意を決して恋人の母親に打ち明け、その母親から「ある時期まで、人生とは何かを獲得していくものだと思っていたけど、実は人生とは何かを喪っていくものなんじゃないかしら」というお言葉をいただき、そうしてさめざめと泣く、心のうちに溜め込んでいたものを涙と言葉でようやっと吐き出すことができ、故人と折り合いを付け、そうして少しずつ前を向いていく……。
大切な人の喪失と受容、確かにそうなのかもしれない。初美はこの3年の間、描かれこそしなかったけれど折に触れて喪失感に沈んでいた(というよりも喪失感という永い夢の中を生きていた)のだろうし、おそらくこの先も以前ほどではないにしろ、彼の喪失を思い出し、それに向き合わざるを得ないだろう(しかしそれに真正面から向き合えるようになったというのが、あるいは映画に即して言うならば、彼の最後の手紙に対して返書を書けるようになったというのがこの映画の趣旨だろうけれども)。しかしそこに至るまでの様子があまりにも淡くあっさりと描かれているような気がしてしまう。露骨に言ってしまえば、印象が薄く、観客に訴えるものが弱い。大切な人の喪失と受容というこの主題について、多少の品のよさや破綻は構わないから、もっともっと注力して、徹底的にその様子を描いてもらいたいと思ってしまった。
(これを書いていて思ったのだけれど、この作品は岩井俊二作品に、特にラブレターによく似ているように思った。主題や女優の映し方や叙情、風景の使い方など
また同じ喪失、その受容というテーマだと、mina-mo-no-gramなどはより真正面からそれを描いているように思った)
mina-mo-no-gram 今日マチ子 藤田貴大
青柳いづみの喪失、追憶、受容が描かれる。
青柳いづみは高校生から27歳までの間に数々の喪失を経験する。高校生のときに自殺で親友を失い、大学生のときに初めての恋人を失い、友人は徐々に変化し、自分の母親を失う。高校生から27歳までの間にこうした喪失を経験し、折にふれてそのことを思い返し、しかしそのことを誰かに話すでもなく、そうした事柄は彼女の内側に堆積していく。そうした堆積物は、時とともに薄れていくけれど決して消え去ることはなく、彼女の一部を形づくり、彼女はそれとともに生きていく。
こうした喪失、追憶、受容の経験は何も彼女に特別なことではなく、私たちの誰もが持っているものだ。街行く素知らぬ顔した行人たち1人1人の内側にも、いくつもの大きな、あるいはささやかな別れや喪失の経験とそれへの追憶、そして受容が折り重なり、堆積している。その表情がどれほど冷ややかで無愛想なものであろうとも。
そうしたものに思いをはせるきっかけを、この作品は与えてくれる。
呪詛を吐きながら 今日マチ子
今日マチ子の呪詛を吐きながら。
雑誌文學界の2018年3月号の特集、岡崎京子は不滅であるに寄稿されたエッセイ。
今日マチ子は、自分の中で最大の岡崎作品はリバーズ・エッジとヘルタースケルターで、今まではリバーズ・エッジが一番好きだったが、最近それがヘルタースケルターに移り変わってきたと言う。リバーズ・エッジには青春特有の勢いときらめきが描かれている一方で、ヘルタースケルターにはこのクソみたいな世界の中でなりふり構わず生きるリリコの姿が描かれるけれど、これらはそのまま今日マチ子自身の境遇でもあって、今の彼女はリバーズエッジからヘルタースケルターへと移行しようとしている。
このエッセイの終わりにある次の条りが好きだ。
「もう二度と戻らない/描けない世界。でもイノセンスの欠片も踏みにじられて、衣類乾燥機の中にいるみたいに振り回されるの、嫌いじゃない。いや、好きだって言おう」
特に最後の「いや、好きだって言おう」という一言に、このむちゃくちゃな世界へどうしようない直感的、生理的な嫌悪感を抱きつつも、それでもその中で生きていくんだという気概、決意が滲み出ているから。
カメラを止めるな! 上田慎一郎
前半にワンカットのゾンビ映画がエンドロールまで放映され、次いでネタバレ的に、その映画がどのように出来上がっていったのかということが、企画の持ち込みから、ハプニングとアドリブ満載のドタバタ撮影風景までコミカルに描かれる。
この映画、デトロイトメタルシティ的なB級コメディで、私も他の観客にもれず、上映中折に触れてはゲラゲラ笑ったのだけれど、その一方で、結局これは映画というよりも、よくできた映画製作のドキュメンタリー、あるいはメイキング映像にすぎないのではないかとも思ってしまった。伏線をコミカルに回収していく構成は妙案だとはいえ、結局は(生放送かつワンカットの)映画製作の舞台裏を描いているだけであり、キツい言い方をすれば単なるお仕事の裏話でしかないのではないか(父と娘のわだかまりというライトモチーフが申し訳程度にあるとはいえ)。
とはいうものの、伏線回収のスッキリ感、生放送かつワンカットという設定によるドキドキ感、そして何よりゲラゲラ笑えるコミカルさの三拍子が揃っていて、とっても上質なB級コメディだと思う。くだらなく笑い興じたい気分のときにはぜひ。