月曜日の友達 阿部共実

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ちーちゃんはちょっと足りない」の次に読む。この2つの作品はとてもよく似ているけれど、違うところもあるように思った。

 どちらの作品も地方の中学校が舞台になっていて、ちーちゃんとナツ、水谷と月野という主人公たちは周囲のクラスメイト(普通の人々)から浮いているところがある。またちーちゃんと水谷はともに発達障害的な個性を持ち、ナツと月野はどちらも団地住まいの母子家庭で、経済資本、文化資本に貧しい。

 

こんなふうに2つの作品にはとてもよく似ているところがあるけれど、違うところもある。

ちーちゃんとナツは同じ団地に住む幼馴染なのに対して、水谷と月野は中学進学で初めて知り合った他人同士だし、ちーちゃんとナツがクラスメイトから浮いているのは暗示にとどまるのに対して、水谷と月野が浮いているのは明示される。

また視点の違いもあって、ちーちゃんとナツの場合、その両方の視点が描かれるのに対して(ちーちゃんの内面描写はなくナツのはある)、水谷と月野だと水谷には焦点が当てられ内面描写がされる一方、月野には一切焦点が当てられない。

 

そしてこれが、多分主題に関わるという意味で一番大きな違いだと思うのだけれど、「ちーちゃんはちょっと足りない」で描かれているのは、ナツの視点からの、いろいろな意味で一緒である幼馴染を失いたくないというものであるのに対して、「月曜日の友達」で描かれているのは、タイトル通り友達をめぐるもののように思う。

ちーちゃんはちょっと足りない」では、終盤、ちーちゃんがクラスメイトの輪に入っていけそうになるのをそれとなくナツが阻止するところで幕が降りる。つまりナツは、同じ団地に住む幼馴染であり、経済、文化資本的にも自分と同じ側であるという意味で唯一の、あるいは真の友達であるちーちゃんを(クラスメイトに)とられ、自分は本当にひとりぼっちになってしまう、そうした事態を防ごうとした。

その一方で「月曜日の友達」では、水谷と月野が他人同士であるお互いを理解しようとしたり、違いを受け容れようとしたり、その人のために思い悩んだり傷ついたり、あるいは許したりしながら友達になっていく、その様子が描かれる。

 

(この2つの作品は友達というものについて、一方では維持、失いたくなさという側面を、他方では構築という側面を描いているものとして理解できるかもしれない)