25時のバカンス 市川春子

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一組の姉弟のバカンスをめぐるお話。

はじめは、あくまでも姉による弟の誕生日祝いという名ばかりのバカンスだったが、それが徐々に、正真正銘恋人たちのバカンスへと移り変わっていく。

その移り変わりの様子は甘酸っぱく、それはきっと姉の性格に由来するところが大きい。彼女は研究者としては非常に聡明で、終盤、諸々の懸念(目的)をたった1つの手段で一挙に解決してしまうところなどはとても鮮やかなのだけれど、恋する乙女としては初心で、すごく不器用。自分の想いをストレートに伝えたり、あざといやり方で気を引いたりといったことはできず、遠回しな言葉やおずおずとした視線、はにかむ表情でしか気持ちを表現できない。普段は淡々と澄ましていながら、恋の場面では途端にしおらしくなるそのギャップが、初恋のような甘酸っぱさを生み出している。

姉と弟の恋模様が甘酸っぱく描かれているというだけでもある種の魅力があるだろうけれど(この方向を叙情的に推し進めたものとして、矢崎仁司の映画「三月のライオン」を想起した)、それだけではこの作品独特のところを言い尽くせてはいない。

それは姉が貝人間(水槽人間)になってしまっていて、姉の外見と性格は保たれているものの、内臓や脳は寄生させた深海の貝たちに食い尽くされて空っぽであり、もはや彼女が生物的に人なのか貝なのか分からないような状態になっていること、そしてその深海の貝たち(彼らはユーモラスな妖精?のような姿で、おっちょこちょいだけれど憎めない性格をしている)を介した(/との)交流が描かれているところにある。こうした人と人ではない生物との融合や交流のおかげで、物語は一気に幻想的な色彩を帯びてくる。

深海、バカンスといった言葉のもつイメージや黒を基調にした画風も相まって、物語は神話やおとぎ話のような世界観にくるまれるが、この淡く幻想的な世界観こそ、25時のバカンスという作品(ひいては市川春子の作品)に独特なところと思う。

 

(余談だが、この作品の主題はゆるく姉と弟との恋模様にあるというより、私が人間でなくなったとしても、それでも相手に受け容れてもらえるかどうか、というところにあるように思った。姉は外形や性格は元のままだけれど、内臓は空っぽで貝に寄生された貝人間であり、もはや人間とは言えない存在になってしまっている。人間ではなく貝人間になった私のことを、それでも人間であるあなたは受け容れてくれるのかどうか…、そうした人と人でないものとの交流(受け容れ)が主題ではないかと思った)