もものききかじり 今日マチ子

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今日マチ子のもものききかじり。ぱらいその次に読む。

あとがきにある「まだ青春を生きているすべての人に幸あれ!」という言葉が、この作品の主題を端的に表していると思う。

主人公のももは26歳で、週に3日派遣で事務をしながら、残りの日は学生時代から続けている演劇に勤しんでいる。無邪気に夢を追いかけられる年齢は過ぎ去り、かといって追いかけていた夢を手放してしまうにはまだ早い、夢を追いかけるのかここらで立ち止まるのか、そんな岐路に立たされている年頃の女性(人間)が描かれている。

この主題からも想像がつくように、COCOONやぱらいその時のような緊迫感、シリアスさ、叙情はほとんどなく、ライトなエッセイ風の作品になっている。

そこで描かれているのは等身大の日常で、それはたとえば、新年、今年は演劇一本でやっていくと決めましたと言いつつも、初詣のお参りにバーゲンの紙袋をわんさと抱えているシーンや、派遣の仕事を辞めるというたった一言をなかなか言い出せずに思い悩んでいるところや、そしてこれが最も象徴的なところだと思うのだけれど、「現実の自分を変えるのはむずかしい」と言うモモに対して、栗山さんが「そんなにすぐには変身できないよ。舞台の役だって稽古を重ねて少しずつ作っていくんでしょ?」と返答するところなどによく表れていると思う。

そしてこの最後の変身の箇所については、太宰治の『おさん』にある「気のもちようを軽くくるりと変えるのが真の革命で、それさえできれば何のむずかしい問題もないはずです」という一節を思い出さずにはいられない。変身に飢えている少年少女なら、この真の革命をすぐさま実行に移そうとするだろう(そしてほとんどの場合この革命は失敗に終わり、若者は理想と現実のギャップにもがき苦しむだろう。しかし、その繰り返しのなかを這いながら前進していくのが青春というものではないか)。その一方で、片方の足を壮年の入り口にかけながらも、もう片方の足はまだ青春の出口のところに残っている20代半ばの人々なら、革命を軽くくるりとやってのけるのは難しい、それを成し遂げるには時間がかかるのだと思うだろう。

夢から醒めかけている。空を飛べないことくらいもう分かっている。けれど、地に足をつけて、現実的に夢を追いかけようとしている。そんな、まだ青春を生きている1人の26歳の姿が活写されている。

その他、桃、チューブ、輪ゴムといったものに喩える発想は楽しいし、個人的には、芸術家肌でいつもほとんど無表情な泉さんの登場が微笑ましい。今日マチ子を知ったのは、雑誌ちくまに連載されていたいづみさんだったから。

 

ぱらいそ 今日マチ子

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今日マチ子のぱらいそ。COCOONの次に読む。本当はアノネ、を先に読むべきなのだけれど、入手できなかったので仕方がない。

戦争モノ。戦時下、教会の絵画教室ぱらいそに通う少女ユーカリには罪があった。窃盗。そして彼女はずっと食事をとらずにいる。初潮が始まって以来。黒に染まり切ってしまわないように彼女は白さを、そして白さを突き抜けて透明を追い求める。

 

はじめ、ユーカリは無色透明だった。彼女の右手は窃盗をやめられず黒く染まり出しているが、まだ染まり切っているわけではない。初潮が始まったことで彼女は否応なく女性という色に染め上げられていくが、それも食事をとらないことでなんとか先延ばしにしている。そして彼女は右手を白くしようと、よきものにしようと渇望し、友人の白絵具を盗み、ポケットに入れる。

この白絵具をもっていると、そして彼女が絵葉書に絵を描いていると、彼女の右手は盗まなくなる。彼女の右手は白くなり、そうして彼女自身も全き白になる。彼女は今や完全な白になり、よきものになり、自らの内から黒を追放したのだ。

しかし人は完全な白にとどまり続けることはできない。どれほど生理に抵抗しようとしても、否応なしに女性的なものへと変化していってしまうように(生理への嫌悪感、自分が他の人間を産めるようになるという紛れもない身体的な事実に対する、言いようもない不安、嫌悪、拒絶については、どうしても川上未映子の『乳と卵』を想起してしまう)。白への、純白への潔癖なまでの(しかしそれは十分に理解しうる)希求は爆弾に変わる。そして爆弾は爆発する。

爆弾が爆発した後には黒しか残らない。焼け野原、瓦礫になった市街地。ユーカリはそこへ白絵具を置いてくる。彼女の白さは失われ、黒が戻ってくる。黒を拒絶していたはずの彼女はしかし、少し生きた心地を取り戻す。

彼女は黒に染まった。とはいうものの、完全な白にとどまり続けるのが不可能なように、完全な黒に染まり切ってしまうこともまたありえない。人は時にそのどちらかに振り切れることこそあれど、振り切れたまま凝固してしまうことはない。白と黒、その2つの色は徐々に混じり合い、灰色へと変化していく。その混じり合いはおそらくスムーズに進行するようなものではなく、大小の反発があちこちで勃発するだろう。それは嵐、あるいは戦争のようなもの。しかしその戦争を抜けた後に待っているのは新しい灰色のユーカリであり、残されているのはそれを生きることだ。白いものも黒いものも全て抱えて。

そしてその白と黒の割合は、生きるなかで折に触れて変動しながら、各々の灰色をつくりあげていく。

 

COCOON 今日マチ子

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今日マチ子の作品。センネン画報+10yearsの次に読む。

戦争モノ。看護隊として戦地に赴くことになった15、6歳の少女たちの姿が(そして少女から大人への移り変わりが)、蚕の繭(cocoon)のイメージに包まれて描かれる。

 

帯にある「繭(空想)がわたしを死(現実)から守ってくれる」というフレーズが、この作品の多くを端的に言い表していると思う。

彼女たちは蚕だ。15、6歳の少女たちにとって、むきだしの戦争(を含む現実)を直視し、そこを生き抜くのはあまりに過酷すぎる。そこには肉塊、負傷兵、血、傷口、蛆虫、死体処理、疲弊、衰弱、弾丸、強姦、餓死、集団自決、そして友人の喪失(裏切り)がごちゃまぜになって詰まっている。生き地獄。

そんな地獄絵図の中でなんとか正気を保つため、彼女たちは白い糸を吐いて繭を作る(これはサンにとってはマユの存在そのものと思う)。その繭は彼女たちを現実から隔て、優しくくるむ。その想像の繭の中にいるかぎり、そのおまじないが有効なかぎり、彼女たちは安心安全であり、健やかな少女のままでいられる。

しかし蚕が成虫になるためには、自らの手でその繭を壊さなければならない。少女(サン)が大人になるためには、新しい世界に生きるためには、自分で作った繭を破らなければならない。

 

けれどその繭は、不要で余計なものだったわけではない。蚕にとって幼虫、さなぎ、成虫、その全ての段階が必要不可欠なものであったように。

そしてこのことは、戦争というモチーフを離れても言えることだと思う(あるいは少年少女たちはいつの時代も、彼/彼女なりの戦争の中を生きているのかもしれないけれど)。大人になるために、人々はみな十人十色の繭を作り、さなぎになる。一種の現実逃避なのかもしれない。でもそれは現実に立ち向かうための、あるいは新たな現実に飛び立つための現実逃避であって、さなぎの中の幼虫は、その間じっと養分を蓄えているのだ。

いつ、どんなタイミングで羽化するのか、それは誰にも分からないけれど。

(追記:作品のおわりに作者による解説を兼ねたあとがきがある)

 

 

プリンセスメゾン(1-5) 池辺葵

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池辺葵の作品を初めて読む。主題、人物造形も魅力的だったけれど、何よりも間(科白の少なさ)に驚かされた。

主題は、ローンでのマンション購入を検討する(主に独身女性の)人間模様を描いたもので、個性的だけれど等身大でもある人々の生活の一面が垣間見れる。

 

何よりも驚かされたのはその間。科白がとても少なく、絵だけで話を展開していくことがしばしばある(第2巻第14話、いつかの家の帰郷シーンなんかはその好例)。視線や表情に動作、そしてそれに続く風景や事物をつなげていくことで、科白がなくとも、いやある意味では科白がある場合以上にニュアンス豊かにストーリーは進み、登場人物の心情が描かれていく。適切な類似物が思い浮かばないけれど、パントマイム、サイレント映画、手話、影絵なんかを見ているときの気持ちに似ている。こんな経験をさせてくれる漫画作品は初めてだったので、とても新鮮。

 

今後の話の展開は分からないけれど、続けようと思えばいくらでも続けていけそうな気もするし、完結させようと思えばそれなりにキリのいいところで完結させられるだろうなとも思う。

あと装丁もモダンな色味で素敵。

月曜日の友達 阿部共実

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ちーちゃんはちょっと足りない」の次に読む。この2つの作品はとてもよく似ているけれど、違うところもあるように思った。

 どちらの作品も地方の中学校が舞台になっていて、ちーちゃんとナツ、水谷と月野という主人公たちは周囲のクラスメイト(普通の人々)から浮いているところがある。またちーちゃんと水谷はともに発達障害的な個性を持ち、ナツと月野はどちらも団地住まいの母子家庭で、経済資本、文化資本に貧しい。

 

こんなふうに2つの作品にはとてもよく似ているところがあるけれど、違うところもある。

ちーちゃんとナツは同じ団地に住む幼馴染なのに対して、水谷と月野は中学進学で初めて知り合った他人同士だし、ちーちゃんとナツがクラスメイトから浮いているのは暗示にとどまるのに対して、水谷と月野が浮いているのは明示される。

また視点の違いもあって、ちーちゃんとナツの場合、その両方の視点が描かれるのに対して(ちーちゃんの内面描写はなくナツのはある)、水谷と月野だと水谷には焦点が当てられ内面描写がされる一方、月野には一切焦点が当てられない。

 

そしてこれが、多分主題に関わるという意味で一番大きな違いだと思うのだけれど、「ちーちゃんはちょっと足りない」で描かれているのは、ナツの視点からの、いろいろな意味で一緒である幼馴染を失いたくないというものであるのに対して、「月曜日の友達」で描かれているのは、タイトル通り友達をめぐるもののように思う。

ちーちゃんはちょっと足りない」では、終盤、ちーちゃんがクラスメイトの輪に入っていけそうになるのをそれとなくナツが阻止するところで幕が降りる。つまりナツは、同じ団地に住む幼馴染であり、経済、文化資本的にも自分と同じ側であるという意味で唯一の、あるいは真の友達であるちーちゃんを(クラスメイトに)とられ、自分は本当にひとりぼっちになってしまう、そうした事態を防ごうとした。

その一方で「月曜日の友達」では、水谷と月野が他人同士であるお互いを理解しようとしたり、違いを受け容れようとしたり、その人のために思い悩んだり傷ついたり、あるいは許したりしながら友達になっていく、その様子が描かれる。

 

(この2つの作品は友達というものについて、一方では維持、失いたくなさという側面を、他方では構築という側面を描いているものとして理解できるかもしれない)

 

25時のバカンス 市川春子

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一組の姉弟のバカンスをめぐるお話。

はじめは、あくまでも姉による弟の誕生日祝いという名ばかりのバカンスだったが、それが徐々に、正真正銘恋人たちのバカンスへと移り変わっていく。

その移り変わりの様子は甘酸っぱく、それはきっと姉の性格に由来するところが大きい。彼女は研究者としては非常に聡明で、終盤、諸々の懸念(目的)をたった1つの手段で一挙に解決してしまうところなどはとても鮮やかなのだけれど、恋する乙女としては初心で、すごく不器用。自分の想いをストレートに伝えたり、あざといやり方で気を引いたりといったことはできず、遠回しな言葉やおずおずとした視線、はにかむ表情でしか気持ちを表現できない。普段は淡々と澄ましていながら、恋の場面では途端にしおらしくなるそのギャップが、初恋のような甘酸っぱさを生み出している。

姉と弟の恋模様が甘酸っぱく描かれているというだけでもある種の魅力があるだろうけれど(この方向を叙情的に推し進めたものとして、矢崎仁司の映画「三月のライオン」を想起した)、それだけではこの作品独特のところを言い尽くせてはいない。

それは姉が貝人間(水槽人間)になってしまっていて、姉の外見と性格は保たれているものの、内臓や脳は寄生させた深海の貝たちに食い尽くされて空っぽであり、もはや彼女が生物的に人なのか貝なのか分からないような状態になっていること、そしてその深海の貝たち(彼らはユーモラスな妖精?のような姿で、おっちょこちょいだけれど憎めない性格をしている)を介した(/との)交流が描かれているところにある。こうした人と人ではない生物との融合や交流のおかげで、物語は一気に幻想的な色彩を帯びてくる。

深海、バカンスといった言葉のもつイメージや黒を基調にした画風も相まって、物語は神話やおとぎ話のような世界観にくるまれるが、この淡く幻想的な世界観こそ、25時のバカンスという作品(ひいては市川春子の作品)に独特なところと思う。

 

(余談だが、この作品の主題はゆるく姉と弟との恋模様にあるというより、私が人間でなくなったとしても、それでも相手に受け容れてもらえるかどうか、というところにあるように思った。姉は外形や性格は元のままだけれど、内臓は空っぽで貝に寄生された貝人間であり、もはや人間とは言えない存在になってしまっている。人間ではなく貝人間になった私のことを、それでも人間であるあなたは受け容れてくれるのかどうか…、そうした人と人でないものとの交流(受け容れ)が主題ではないかと思った)